中国万事通

「靖難の変」に従事した鄭和(建文帝と永楽帝・中/昆明14)

2017/10/07

(南京市の馬府街。かつてこの辺りに鄭和が住んでいた)

野心に燃える燕王(後、三代目永楽帝)

次は北京を治める燕王の朱棣だ、という噂が街に広まったとき、朱棣は立ち上がった。「今国は大変な危機に直面している。我々はそれを取り除かねばならない」と彼は天下に号令をかけた。武力を以て朝廷に立ち向かう。

これが「靖難(せいなん)の変」である。これは難を靖(やすんず)ると訓読みし、災難を取り除くという意味である。

「靖難の変」で出世した鄭和

靖難の変では、北京を治める燕王朱棣、南京を都とする建文帝が相争った。北京という場所は、モンゴルと北の国境を接する。明代は、モンゴル人王朝の元を追い出した王朝である。モンゴル人は度々中国からの略奪を企て、国境の町に攻めてきた。北京は国家の要衝であり、北辺の防備はいつの時代も中華世界の至上命題であった。

このため、燕王の擁する軍は戦い慣れしている。一方、南京側は、洪武帝の時代に建国の功労者たちを謀殺していたため、戦い慣れした人材不足であった。さらに、燕王は知略家でもあった。側近の宦官を密かに南京に派遣し、情報収集を図っていた。

結果、燕王軍が南京を攻め落として勝利した。鄭和は、この靖難の変で活躍したため、後に永楽帝から鄭姓を賜った。実は、鄭和の本名は馬和であり、馬は「ムハンマド」という名前の中国姓であった。ここからも、鄭和がイスラム教徒であったということがわかるのである。

朱棣=燕王=永楽帝。太祖洪武帝(朱元璋)の第四子。燕京(今の北京)を統治した
## 支配の正統性 支配の正統性とは、「正しい」「間違いである」を表す正当性とは異なる。いわば、「その人(家系の者)が統治をすることに対して、歴史的経緯に照らし合わせて妥当であること」と言える。これは中国の「天」という概念に密接に関連する言葉である。

靖難の変について、歴史上その評価は分かれている。しかし、その後の永楽帝の統治について、正統性がなかったことは疑いようがない。首謀者は洪武帝の息子であったものの、これはいわば地方軍のクーデターだったからだ。建文帝が彼に統治を任せたわけではない。実力で帝位を奪い取ったことに違いはなく、このために永楽帝は帝位の簒奪者であると呼ばれることがある。

中国では古より、天が統治者を決めるとされてきた。歴代王朝にとって統治の正統性は一大事である。これは現代の共産党でも変わらない。

天が選んだ統治者の家系が代々下っていくと、必ずどこかで悪政を行う者が出てくる。普段は天が選んだ君子に矛を向けることを許されない。しかし、統治者が悪政を行う場合、反乱を起こし、統治者を変えてもよい。これが易姓革命の概念である。大乱の後、土地を支配し、善政を敷くものは、天に選ばれた者だからこそ人の上に立つのだ、とこういうロジックである。

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(永楽年間の磁器)

しかし、永楽帝には統治の正統性という大義がない。国難を取り除くと言えども、建文帝の政治によって一般庶民が苦しめられているわけではない。王朝の中で権力闘争がなされているだけである。このため、清代に編纂された明史では、永楽帝が後の明代の発展の基礎を築いた人物であると高く評価するものの、靖難の変については汚点であったと表現されている。

(ちなみに、前王朝の歴史書を編纂するのは、次の王朝の役目である。なお、共産党が天下を取った後、清史が書かれたか否かは寡聞にして知らない。ただ、Wikipediaを参照すると、2016年1月時点で既に初稿は完成しており、現在は校正の段階だそうだ(*)。)

以上の経緯から、靖難の変は、時に靖難の役と呼ばれていた。動乱の末に世の中を変えたという意味の「変」ではなく、戦いによって国が荒らされたという「役」という評価を下してのことだ。これは歴史の見方の角度によって変わるものであって正解はない。永楽帝の統治にはしっかりとした正統性がなくても、明が最大版図を築き、国力は着実に発展していったことは疑いようがない。

動機が不純であっても結果が良ければそれでいいのか、結果のいかんを見ずに動機を重視するのか、論者によって景色が違う。この論争は永遠に決着を見ることがないのである。


えもん

えもん 大学では文学部に行きたかった都内IT企業のエンジニアです。
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