中国万事通

一人の宦官と、1人の皇帝の話(建文帝と永楽帝・下/昆明15)

2017/10/08

(南京市、故宮。建物は一つも残っていない)

「貞婦は二夫に見(まみ)えず、貞臣は二君に仕えず」

方孝孺(ほうこうじゅ)は、当代一の儒者であった。若き建文帝に徳治を教えたこの大学者はどのような結末を迎えたのだろうか。

永楽帝に捕らえられた方孝孺は、詔勅を起草する役職を依頼された。しかし、建文帝に重用されていた方孝孺は、泣きながら取り乱し、永楽帝が帝位を奪ったと罵り始めた。永楽帝の側近が諫めても罵ることを止めないので、激怒した永楽帝は方孝孺の舌を切り落とした。

すると、方孝孺はまだ血の滴る舌を手に取り、「燕族簒位(燕の逆賊が帝位を奪った)」と地面に大書した。そこで方孝孺は捕らえられ、一族800人もろとも殺されてしまった。

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(南京市、故宮。南にある午門)

以上は、野史に伝わるところである。詔勅を任されそうになったのは正史に書かれているが、それ以降の永楽帝の残虐な措置は特に記されてはいない。宮廷の知識人たちの尊敬を一心に集める方孝孺に対して非情な対応をすれば、彼らの心は離れ、政権を運営することができない。洪武帝の猜疑心が強く過酷な性格を継いでいたとしても、永楽帝は怒りで勘所が見えなくなる男ではないだろうと思う。

また、方孝孺も命惜しさに永楽帝に協力するよりは、刑に処されて建文帝の後を追うことを選んだ、評判に違わぬ高潔な精神の持ち主であったと言うべきだろう。

宮廷を追われた元皇帝と鄭和の南海遠征の裏の目的

さて、居城の南京を攻略された建文帝はその後どうしたのか。実は、燕王軍が南京に攻め込んでくると、宮廷はどこからか火事となり、全て焼け落ちてしまった。そして、不思議なことに今に至るまで、建文帝の遺体は見つかっていないのだ。

帝位を簒奪した永楽帝は、統治の正統性を担保するために、建文帝を歴史上からも抹殺してしまった。自分が第二代皇帝として即位したのである。建文帝の名誉が回復され、正史に名を刻んだのは、おそよ300年後の清代乾隆帝の治下であった。

さて、建文帝は本当に火事で亡くなったのだろうか。南京の民の間ではこんな噂が広まっていた。

明朝初代の太祖洪武帝は、もともと貧しい農民の出自である。貧乏ゆえ食うものも食えず、出家して寺に在籍していたこともあった。この経験から、子孫の皇帝には、明に大難が降りかかってきたときにのみ開封してよい箱を残した。その箱の中には僧侶の戸籍と袈裟、それに髪の毛をそり落とすカミソリが入っていた。建文帝は祖父の残した道具を使い、名前を変えて僧侶に身をやつし、闇夜に紛れて宮城の掘りの船に乗り、追っ手を逃れて雲南の方へ逃れていったのだ。 これはあくまでも建文帝を憐れに思った民間の伝説である。建文帝は船に乗ったとあるが、宮城から逃れ出られそうな場所には堀がなかった。火事からは逃れようはないのである。

その民間の噂を聞いて、永楽帝はどのように感じたのだろうか。実は、鄭和の南海遠征は、建文帝を探すという裏の目的があったとまことしやかに囁かれている。ただし、その真偽は定かではない。

かつては天下の皇帝、今や托鉢して僧となる

さて、滇池周辺の悲劇の話である。結局、靖難の変のストーリーを背景、顛末まで書き記して、僕は何を伝えたかったのか。

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僕は龍門を観光した後、西山に向かうロープウェイ降り場から、北に30分ほど歩いて進んだ。そこに大華寺があり、その庭には、僧侶となった建文帝が植えた木があるとガイドブックに載っていたからだ。

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しかし、運の悪いことに太華寺は既に閉門していた。そのため、建文帝が植えたという木は見ることができなかった。門前の写真を掲載しておく。門の前には一匹の黒猫がいた。僕はちょうど持っていた菓子を全部猫にやって、太華寺を後にした。

一人の宦官と一人の皇帝

雲南の地で明軍に捕らえられて宦官となり、北京に至って朱棣に仕えた鄭和。南京で若くして皇帝に即位した建文帝。靖難の変で二人の運命は交差する。以後、鄭和は南京で艦隊を建造し、四海を股にかける英雄になる。一方、建文帝は*蒙塵の憂き目にあい、僧となって雲南の山に籠る。 子孫繁栄が人生の幸福であるという共通観念を持つ中国にあって、子供を残すことができないために、誰もが軽蔑する宦官という存在。中華世界にあって、天下を統べる唯一無二の存在である、龍の衣を纏う皇帝。どのような存在が、どのような意思を以て、彼らの二人の運命を一変させたのだろうか。

それにしても、運命とはかくも非情なものだ。この皮肉な悲喜劇を歴史という舞台で演じきったのは、どちらも同じ、一人の人間なのだから。

I hold the world but as a world, Gratiano,

A stage where every man must play a part.

And mine a sad one.

僕はこの世が一つの世界だと思っているよ、グラシアーノ。ここでは誰もが自分の役をこなさなきゃならない舞台なんだ。僕のは悲しい役だよ。

―― シェイクスピア『ヴェニスの商人』第1幕第1場より

アントーニオのセリフから

*蒙塵:もうじん。戦乱の煽りを受けて、皇帝が宮城を出て地方に逃亡すること

えもん

えもん 大学では文学部に行きたかった都内IT企業のエンジニアです。
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