中国万事通

皇帝たちの数奇な『運命』(建文帝と永楽帝・上/昆明13)

2017/10/06

昆明の3つ目の悲劇

先日、西山の龍門石窟と滇池の誕生の伝説を2つ書いた。そのどちらも人の心を打つ悲しい話だった。単なる喜劇よりも悲劇の方が人の心に残るのだろう。多少の脚色はあるだろうが、心惹かれるストーリーだった。

https://ccculture.net/archives/425

https://ccculture.net/archives/1046

その話を書いていて、2つあればもう一つあるだろうと考えてみると、一つ自分の中で繋がる話があった。舞台はやはりこの昆明。龍門を観光した後、西山を散策した写真を見ているときに、はたと思い出したのだった。

明朝の初代皇帝、太祖洪武帝

時は明代、1402年に永楽帝が即位した後、その存在を歴史から抹消された皇帝がいた。名は允炆(いんぶん)。元号は建文。太祖洪武帝の第一子、朱標の次男である。

初めは朱標が皇太子であった。しかし、洪武帝が存命の間に、朱標は亡くなってしまった。洪武帝は、允炆の優柔不断で文弱な性格を良く思わず、自分に似て勇猛果敢、英雄の気概を持つ燕王の朱棣を次なる皇太子に指名しようとした。しかし、礼教を重んじる側近の儒学者たちが洪武帝を諫めた。

「それはなりません。朱棣は第四子ではありませんか。第二子、第三子の兄を差し置いて弟を上に据えるなど、長幼の序に反することです。順番から申し上げますと、先の皇太子様のご子息が次の皇帝なるのがふさわしいのです」

かくして、允炆が皇太孫となったのであった。

IMG 5883

(南京市、明代の城壁)

若くて柔和な二代目建文帝

洪武帝が崩御したのち、允炆は即位して元号を建文とした。1398年のことである。

さてこの建文帝、他の皇帝に比べて暗君とは言えないものの、根っからのお人よしであり、国の創業期にはしっかり法を行うことが肝要である、と考えた洪武帝の定めた刑法に定める刑罰を軽くするなどの改定を行った。

また、皇帝になったはいいものの、洪武帝には20人近くの子供がいる。彼らはみな建文帝にとっては叔父である。皇帝は21歳の若さで即位しているが、北京周辺を防備している叔父の朱棣は既に37歳である。優柔不断な若い皇帝が、父である洪武帝の傍で大変な経験をして戦ってきた海千山千の叔父たちに物を申せるはずがない。自然、叔父たちはこの若皇帝に不満を抱くようになった。反対に、皇帝の側近は、叔父たちの権力を段々と削るように進言した。儒学者の筆頭である方孝孺(ほうこうじゅ)のは言い分はこうである。

「洪武帝は、国の形を整えるため、ご子息を中国各地に送り、領土を分割し、諸王に封じました。しかし、はるか漢代を思い返してみますと、各地に封じられた諸王が、時の朝廷の政治を嫌って反乱を起こしました(呉楚七国)。いったん反乱は起こったものの、最終的に朝廷がこれを収めました。これを以て今を顧みますに、まさに同じような情勢ではありませんか。歴史は鏡でございます。なにとぞご決断を」

若き建文帝はこの助言を聞き、諸王として地方に君臨する叔父たちの権力削減を実施していった。最初のうちはこの政策は順調に進み、諸王はその身分から一般庶民に落とされていった。しかし、やがてその政策に反発し、立ち上がる者がいた。それは…。 (翌日に続きます!)


えもん

えもん 大学では文学部に行きたかった都内IT企業のエンジニアです。
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