中国万事通

昆陽の鄭和公園でアフリカに想いを馳せる(鄭和公園・上/昆明10)

2017/10/02

駅前のタクシー運ちゃんたちに翻弄される

13時19分、列車は定刻通り昆陽駅に到着した。僕の想像と違って、昆陽駅は鄙(ひな)びた駅だった。15両以上ある列車であるにも関わらず、この駅で下車した人は僕を含めて3人。ホームに立つ駅員の方が人数は多い。活気のない駅を通り抜けると、駅前広場にはほこりでくすんだタクシーが4台ほど停まっているだけだった。

がっちりした体形で、日に焼けた顔の中年の男性と目が合う。「どこに行きたい?」「鄭和公園まで」外国では、タクシーは予約したもの、もしくは流しのものしか乗りたくない。僕は、おじさんにバス乗り場はどこかと尋ねた。「バスはあっち。でも、今駅前は工事中だから、そこまで歩くには大回りしないといけないし、2,30分はかかる。それにバスの本数も多くないよ。」

指を指された方向は、確かに工事現場の向こう側だ。工事をしているといっても、まだ更地をフェンスで囲んでいるだけなので、向こうまで見渡せる。しかし、道の左右を見ても、どこまでもフェンスが続いており、曲がり角が見えないほど遠い。それに雨も降ってきたし、何より今は移動に時間をかけたくない。

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(高台から見た昆陽市内。奥に見える湖は滇池南岸)

「鄭和公園まではいくら?」流し以外のタクシーに乗る前には必ず値段を聞く。「15元(240円)」。初乗りの値段はわからないし、バスは1元なので割高だが、思っていたより安いくらいだったので、タクシーに乗り込んだ。

扉を閉めるとき、周りの運ちゃんたちがニヤニヤしながらこっちを見ていた。あっ、やられた!とりあえず10元と値切っておくべきだった!「どこの国から来た?」運ちゃんは表情を変えずに話しかけてくる。「韓国人です」と、僕は答えた。

タクシーの運転手には、日本人嫌いの人が多い。僕の友人が上海でタクシーを捕まえたところ、顔をちらっと見られて「No Japanese」と言われて乗車拒否されたそうだ。彼は両親も国籍も韓国人なのだが。

それに、ここは反日感情の根強い雲南省である。遠回りされた挙句に追加料金を請求されたり、目的地以外のところに連れ去られて身ぐるみを剥がされたら元も子もない。

「韓国人か。見た目とか振る舞いから、日本人だと思った」と運ちゃん。日本人は基本的に値段交渉をしないが、韓国人はするのだろうか。なんとなく国籍を偽ることに引け目を感じて、「日本生まれの韓国人だ」と言ったら、運ちゃんは急に黙ってしまった。

そんなやり取りをしている間に、車は工事現場を過ぎて市街地に入っていった。僕はハッとした。昆陽駅を写真に収めるのを忘れていたのだ。急いで振り返っても駅の姿も見えず、戻って追加料金をと言われても面倒だ。午前の電車を逃しているので、揉め事で時間を浪費したくない。何か撮らねばと思ったのだろうが、手元に残っているのは何の変哲もない写真一枚だけだ。この時は、ずっと駅前の運ちゃんたちのペースだった。

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(昆陽駅近くの何の変哲もない写真)

彼の名は?

15分ほど西に進むと、鄭和公園に着いた。実は、中国の旅の一番の目的地はこの鄭和公園だった。特に言及していなかったが、僕はこの旅を6月の中旬に始め、インド、マレーシア、ベトナム、中国を回り、上海を経由して7月下旬に日本に戻ってきた。旅を計画するときに、インドのある街と、中国のこの鄭和公園は必ず行くと決めていた。それほど自分にとって重要なスポットだった。

鄭和公園には何があるのか。ここには、鄭和の父、馬哈只(マハジ)の墓がある。では、鄭和とは誰なのか。一体何をした人物なのだろうか。

彼は14世紀後半に生まれた。時は元末、後に明の初代皇帝となる朱元璋(しゅげんしょう)が紅巾軍を従え、中華統一の覇業を果たさんとしたころだ。乱世の余波は遠く雲南の地にまで及び、鄭和は宦官となって燕王(後の成祖永楽帝)の身辺を世話することになった。

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本来、男性器を切り落とされた宦官は、皇帝の妃たちが住む後宮の世話係だった。しかし、雲南を制服した朱元璋の部下は、捕虜となったこの地の若い男たちを独断で宦官にし、当時の首都南京に送った。功名心から誰彼無しに宦官にしてしまったため、人員が余ってしまい、朱元璋は宦官を自分の子供の世話係に与えたのだった。そして、鄭和は当時の北京(当時の名は燕京)周辺の統治を担当する燕王朱棣(しゅてい)の元に引き取られていった。

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(鄭和の胸像)

鄭和は宦官となった後も立派な男子に育ち、身長は1.8メートル、がっちりとした体躯を持ち、声は朗々としており、人を引き付ける性格だった。永楽帝は鄭和の勇猛果断なところや、人をまとめるリーダータイプであることを見抜いており、かねてより温めていた大事業のトップに抜擢した。そして、鄭和の名は今に至るまで、歴史上に煌然と輝くこととなったのだった。

鄭和下西洋(鄭和の南海遠征)

永楽帝の業績を挙げればきりがない。彼の治下、明は700年前の唐代以来の最大版図を持つ王朝となった。また、明の首都を南京から北京に移して北京繁栄の基礎を築き、以後現代に至っても北京はなお600年間中国の首都であり続けている。また、モンゴルに5度の親征を行っている。

中でも、鄭和がリーダーに抜擢された事業は、彼の生涯で7回にも及んだ「鄭和下西洋(日本では、鄭和の南海遠征)」だ。世界史の教科書にも記載があるほど、世界的に見てインパクトの大きい事業だった。

ヨーロッパと接触する前の中国から見て、西洋とはマラッカ海峡を抜けたインド以西を指した。このため、鄭和が西洋に下る、という表現となるのである。

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そのルートは長江の河口から出発後、ベトナムを南下し、マラッカ海峡を通ってインド・スリランカまで行くものだった。また、彼の分遣隊は遠くアフリカのソマリアまで辿り着いたという。その証拠に、アフリカからキリンを持ち帰り、永楽帝に献上したと文献にある。

キリンは当時アフリカでGirinと呼ばれており、中国語の麒麟(qilin)と音がよく似ていた。また、古代中国では、現在の皇帝が良い政治を行っていると麒麟が現れるというおめでたい伝説上の動物だった。それが実際に目の前に現れたのである。永楽帝の喜びは計り知れなかった。鄭和の株も大いに上がったことだろう。

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中国に連れてこられたキリンとは反対に、鄭和の分遣隊のメンバーのうち、アフリカに留まる者もいた。なんとその子孫、つまり明代の中国人とアフリカ人の混血の村があるそうだ。村の名は西游村で、游は遊と同じ意味だ。つまり、玄奘三蔵が中国から西にある天竺まで仏典を求めに旅をした西遊記の西游と同義になる。中国から遥か西の方アフリカまでやってきたというイメージにぴったりの名前だ。

また、鄭和の分遣隊はアラビア半島のメッカも訪れている。これについて、僕は彼の宿願があったのではないだろうかと推測している。

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次回は、鄭和のバックグラウンドに触れながら、鄭和公園の景色を紹介していきます。

費用(昆陽駅 → 鄭和公園)

昆陽駅 → 鄭和公園 タクシーでの移動 ✓費用15元(約250円) ✓所要時間 15分 *メーターを回してもらった場合、10元で到着する可能性あり *鄭和公園は入場無料


えもん

えもん 大学では文学部に行きたかった都内IT企業のエンジニアです。
Twitter: @koneko_mc